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執筆者の写真生 吉村

「品川用水の面影」展と写真のこと

戸越銀座photo kanon galleryで開催中の、渡邉茂樹写真展「品川用水の面影」を見てきた。



暗渠の写真展。という表現だけでは、圧倒的に説明不足。

まず、水っ気と植物の緑色がすばらしく、見惚れる。何故こんなふうに撮れるのか?


在廊されている渡邉さんから解説を聞くと、当初感じられたものが腑に落ちてくる。2巡目、さらに見えるものが増し、写真たちはいっそう、輝きを増す。

わたしの拙い表現では不足するに違いないけれど、「妖精が飛び出してきそうな鮮やかな緑色」と、「生命を包み込むような水の存在」がそこにあった。緑色好きとしては堪えられない。


雑誌「東京人」でも撮っていると聞き、家に帰ってからためしに「四谷」の号をぱらぱらとめくる。あった!渡邉さんの撮った、四谷荒木町の策の池。戸越銀座で見た写真と共通する緑と水。策の池をこんなふうに撮ることができるなんて・・・!


渡邉さん流の「暗渠の愛で方」があり、それが一貫して写真に反映されている。と、思った。


まだ靄のかかる暗渠みちの中にいるかのような余韻を味わいながら、帰り道に考えたのは、林丈二さんとのトークの後に、「写真の撮り方」について考えさせられたこと、の、続きだった。


トーク中(他の回でも)、片手袋の石井さんが「写真に関するこだわり」について聞こうとしている感じはした。わたしは写真にも、その構図やカメラのスペックにもこだわりがないので、答えることが難しかった。

また、トーク後の雑談では、林さんはわたしの写真にはあまりピンとこないと言い、そのやりとりから、わたしは、林さんは「今見えているものを最大限に魅せる構図で撮る」ことを常にしているのだと理解した。

では、わたしは暗渠をどう撮ろうとしているのか?初めて考えたのがそのとき。トークのちょっと後だった。わたしはたぶん、目の前に、かつて流れていた小川と岸と岸辺のものたちを視て、記録するように、撮ろうとしている。だから、なんだかいつも、同じような引き方とアングルで撮っている。川と岸を、そしてその余白にある物語を、自分が感じられることが、たぶん必要なのだった。


「撮る」「魅せる」ことよりも、「書く」方が好きだから、こういったことを意識してこなかったのかもしれない。ただ、「水路上観察入門」を書いた後に生じた変化はあって、水路上のアイテム、すなわち自前階段とかそういうものは、きちんと撮りたいと思うようになった。それで、一度は重すぎるからという理由で放棄したデジイチを、最も軽量と謳っている型で再び買い、水路上観察用にした。暗渠だけを撮っているときは、そのような欲は生じることがなかった。なので、これは「水路上観察」をしたために生じた変化なのだ、と思う。


品川用水の展示の話に戻る。

渡邉さんも、その解説を聞く限り、「見えないもの」を見ながら撮っていた。同じように「見えないものを見ようとして撮っている」が、渡邉さんの場合、何を見せたいのか、そのためにどう撮るのかという方針と主張がとても明確だ。いうまでもないことだが、技術も。

そういう人が撮る写真は、うつくしいだけではなく、迫力も、説得力も併せ持つ。


展示は2月2日まで。






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