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執筆者の写真生 吉村

城東電車が走っていたころ

平井オープンボックス&平井の本棚さんでの展示が明日で終了。あっという間だった。


平井展示のオープニングトーク(1ヶ月間後追い視聴可能)では、城東電車の話もした。

その昔、錦糸町から江戸川区方面に伸び、荒川放水路を渡って浦安方面に向かう(厳密にはちょっと手前の今井橋)、城東電車というものがあった。


大正13年の新聞には「知られざる一日の清遊地」という記事が載る。




「錦糸堀で市電を捨て城東電車にゆられてひとまづ終点に降りると驚いた。荒川放水路近くに二ヶ所の水泳場があって盛んに都人が行楽している。尚又川岸には網打ちやら、しじみ取りに多くの人達が清い水の中に入っている姿がいかにも夏という感じを痛切に思はしめた。」


記者は砂町線にも乗り、砂町の海水浴場にも行ってみた。そこもまた広々として波静か、こんなに良い場所が多くの都人に知られないことがかえって不思議、とまで書いている。


当時の穴場スポット、ということになるのだろう。現在ではその海岸線はだいぶ推移しているし、水の清らかさについては言わずもがなだが、清涼な地がそこにあり、そのような行楽地を目指し走っていた電車が、(多摩川に向かうばかりでなく)城東地区にもあったのだった。


城東電車の新聞広告を追っていくと、具体的な風景が思い浮かべられるのでなかなか面白い。そんな中、変わったニュースを見つけた。

昭和2年、「力持ち3人女、城東電車のレールを盗む」という事件が発生する。




場所は亀戸町7丁目。現在の亀戸7丁目だ。

そこで、3人の女性がレールを重そうに持って歩いているのを亀戸職員が発見した。前の月から城東電車の工事材料を盗んでいたとのこと…


城東電車は亀戸付近では、現在の京葉道路を東西に走っていた。


以下は東京時層地図の昭和戦前期の該当位置。城東電車の軌道が描いてある。

このあたりをレールを持った女性がえっちらおっちらと歩いていた、ということになる。


城東電車の軌道はまだ東へと伸びていく。

そして小松川まで伸び、西荒川でストップする。



西荒川から東へは、荒川放水路をバスで渡って、東荒川電停からまた城東電車に乗る、という流れだった。


平井周辺は、行楽地に向かう途中の、あるいは始まりの駅だったのだ。「しんまち」という駅が見えるが、江戸川区役所もここにあった。また、小松川二丁目あたりは街道に沿って発達した街並みがあり、郷土資料によればなかなか派手な旅館などが立ち並ぶ宿場町であったとか。


現在のまちからは、なかなか想像ができないことばかり。

海水浴、釣りに潮干狩り、桜の花見やつみ草、散策などが楽しめる行楽地に向かう、錦糸町(錦糸堀)から東に走っていた電車。

その城東電車が今はなき川を渡る鉄橋の一部が、残されている。その話は展示内にあり、そして城東電車の広告のことはオープニングトークで話しているので、ご興味のある方はぜひ。


かつしかけいたさんをゲストに迎え、東東京区区の川と橋、そして東東京の川と橋について語ります。



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