浦和の暗渠を歩いた。
市街地の意外なところに湧水を見つけて興奮したり、
近所のかたご推薦の暗渠道で藪漕ぎをしたり。
その暗渠を翌日グリーンカレーで再現するくらい、たのしかった。
この日メインで歩いたのは、浦和西口のひそやかなる谷。
岸町緑道を経、白幡沼にいたる。
白幡沼。かつては白幡村溜井とも呼ばれた、すなわち農業用の溜池でもある(貯水量は少なかったようであるが)。 現在も築堤らしきところを歩くことができ、そこで頭上に蛇をのせた庚申塔を見つけたときには飛び上がるほど嬉しかった!同行の歴史家K氏は、女性のみが寄進した珍しい庚申塔であることを読み取っていた。
白幡沼にまつわる伝承のひとつに、キクという美女が好きな相手と結ばれずに金持ちの碌でもない男に嫁ぎ、苦労の末に身投げをし、その幽霊が好きな相手のもとに現れたが、地元の人は白幡沼の弁天さまが化けたのだろうと言った、というものがある。この話、身投げの場所が白幡沼ではなくてなぜか東京の深川なのだ。
近くにある別所沼にも弁財天があるが、そちらの弁天さまは深川の洲崎神社から分祀したもの。別所沼を昭和初期に「昭和園」なる行楽地として整備したのが小島長次郎氏で、小島氏は深川の人物である。そのあたりと白幡沼の伝承が何か関係があるような気がしてならない(混線しているのかもしれない)が、読んでいると脈絡がなさすぎ、「え、なぜ唐突に深川?!」と違和感を抱く。
なお、小島氏に関する情報は郷土資料「うらわ文化」からのものだが、ネット上では小島氏が洲崎遊廓の貸座敷「長生楼」の主人であるという記述も見る。
そしてわたしが今回浦和暗渠歩きに際して集めた中で一番面白かった資料は、「うらわ文化」の小島力氏作の記憶図だったのだ。
小島力氏は浦和の郷土史家なのだろうが、はたして小島長次郎氏とは関係があるのか?
そもそも、茨城の出身で深川住みの小島長次郎氏が、なぜ私財を投じてさいたまの別所沼をこんなにも整備したのだろうか(沼の面積が半分以下になる大工事だ)?
もしかして、人の集まる場にし、洲崎のような遊廓も作りたかったのだろうか?
気になりだして夜も眠れなくなりそうである・・・
一応ここに書いておき、追加情報が入ってきたら、随時書き足すこととしよう。
浦和と東京・深川の(水辺を通した)関係。現時点では、謎に満ちている。
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