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執筆者の写真生 吉村

荒川区「水辺の小さな歴史ー昭和の事件簿ー」ツアー


昨年度、お世話になった荒川区の景観まちづくり塾さん。

暗渠パートのお手伝いを、こんな感じと、こんな感じで、させていただいてました。ツアーも。とても丁寧に記録してくださっています。感謝!


で、後日談なんですが。

昨年度ぶんの企画終了後、塾のスタッフさんと暗渠マニアックスがただただ楽しみたいだけにやる、オプショナルツアーをおこないました。

といっても、どういうルートなのかは終始明らかにしないミステリーツアー、


・吉村が「荒川区の水辺(水路に限らない)で起きた昭和の事件簿」ツアーをする

・高山が「路上暗Q」をする

・暗渠上を歩く際には各自水路上観察をしながら歩き、最後に写真を見せ合う


という尖った内容で。


西日暮里駅に集合。といえばあそこです。藍染川が道灌山から落ちてくる、開渠の出口が本日の旅のはじまり。



さくら水産の外側、この中庭のように装飾された謎の空間が、暗渠の出口に蓋をしたところ。

ここはわたしにとっちゃあおなじみの場所なんだけど、荒川区のスタッフさんと来て、改めて眺めてみると、出てくる出てくる新たな「見立て」…!!あーそこをそういう目で見たことはなかった、すごいぞすごいぞ、と、のっけから楽しく、この目の肥えたみなさんと歩くことへの期待値がうなぎのぼりとなる。


藍染川を歩き、かつての銭湯「宮の湯」跡(火事になったニュースがある)と、暗渠サインである製餡所(解体工事でなくなりかけていた…)へ。


続いて、「鬼怒電(鬼怒川水電東京変電所)の池」跡に向かう。



池の縁だと思っている場所。それらしい高低差がある。


この池で、昭和12年に溺れる子どもを子どもが助けたという報があった。ご近所の方にインタビューをしたとき、「あの池では、男の子は遊ぶけど女の子は遊ばなかった」と言っている人たちがいたのだが、このニュースでは女の子も遊んでいた。

現在は住宅地に埋もれてしまった、鬼怒電の池。かなり大きかったようだし、まだ古老の記憶も生きている。


近くの暗渠上を歩いていき、こんにゃく製造卸業の会社の跡地へ。

水を大量に使うからか、暗渠脇にこんにゃく製造業の建物があるのは、これまでにも何軒も見た。



昭和53年に「白滝代」として多額の現金がここの郵便受けに入っていた、というニュースがあった。しかも、その差出人には心当たりはなく。なんとも不思議な事件である。


ここで高山氏が難易度の高い暗Qを出し、皆が物凄い緻密な計算のもと答えていくという、このツアーの名場面の一つが繰り広げられた。


なお、この後もお金に関するニュースが頻発するのだが、新聞記事になるような事件とはひたすら「お金」と「人が亡くなった」「人が助けられた」ばかりなので、仕方ない。


さて、次は今もある銭湯へと向かう。「ニュー恵美須」さんだ。


ここは昭和58年、露天風呂等豪華な設備とともにリニューアルオープンしている。当時すでに、銭湯の客が減っていることが嘆かれていて、転業した方が楽だが「銭湯を中心に育まれてきた下町の人情を残したくて」と改装に踏み切った、とある。天晴。なお、当時の入浴代は240円。

わたしはここのお風呂に入ったことはないのだけれど、そういった時代も経て、今もなお残っていることは、なんだかうれしいものだ。


次はタクシー会社の近くを通りながら、「タクシーに置き忘れた130万円が戻ってきた」事件を朗読。昭和45年、銀座のクラブの経理課職員が、従業員29名分の給与をタクシーに忘れてきてしまった。当時給料は給料袋で手渡しだったらしく、それゆえ起きてしまった恐ろしい事件である。恐怖に慄いただろうな、忘れた人…

参加メンバーに「給料を現金でもらったことのある人」がちょっとだけいて胸熱だった。

ちなみに、タクシー会社も暗渠サイン。

このあたりになると路上暗Qもだいぶノリがよくなってきて、オリジナルのポーズを取る人が出始めるなどします。


続いて向かうのは、現オリンピック、かつての料亭小泉園。尾久三業地の中でもよく名の挙がる店だ。

温泉も湧いていた地であるが、小泉園がその後ボーリング場になった時、住宅地図上に「サウナ」なる文字があり、温泉の魂が残っているのだなと熱くなった。


大正12年、「料理屋の池から御神体発見」というニュースが報じられ、この料理屋というのが小泉園のこと。

「御神体」が川の底などから出てきて祀られる話はあちこちにあるが、この事件はそういう類ではなく、尾久八幡神社の御神体と掛け軸が盗まれ、小泉園の池に投げ込まれているのを村人が発見した、というもの。


で、小泉園の池跡を探しながら歩いている時に見つけたのが、この神社。



オリンピックの裏手。まるで富士塚のようだ。と思ったら尾久浅間神社と書いてあった。

この奥に料亭小泉園があり、たぶん、この神社のすぐ隣に池があったはず。この富士塚のようなものは、小泉園の庭の風景の一部を成していたのではないか・・・?

なんて、かつての風景を妄想するのであった。

暗渠をひたすら歩いていたら気づかなかった神社なので、池跡も見ようとして本当に良かった。そのくらい、秘境感のある良き場所だった。


さて、次は銭湯跡地。桐の湯、昭和40年代の住宅地図には載っている銭湯だ。やはり目の前の道は暗渠で、現在、銭湯の建物跡がまるまる駐車場になっている。

ここでは昭和31年、「板の間かせぎの3少年が逮捕」されている。脱衣所で他の客の金品を盗む行為のことは、「板の間かせぎ」とか「板の間荒らし」といわれ、この頃の新聞には頻繁に出てくる表現だ。

わたしはこの「板の間かせぎ」を今回初めて知ったのだが、参加メンバーもそうであったようで、短期間しか使われなかった言葉なのかもしれない。


一旦、東尾久3丁目から都電荒川線に乗って、荒川区役所前にワープ。


またもや銭湯跡地を目指す。今度は桜湯、現役時代荒川区においてかなり有名な銭湯で、廃業時に新聞記事が何度も出ている。廃業は平成11年。大正創業(都内最古と書かれているが、実際は別にもっと古い銭湯があるので、記事がまちがえているのだろう)の、立派なタイル絵を有する銭湯で、この価値あるタイル絵を保存したいという流れが生じている。そして廃業後、岐阜版のニュースに、タイル資料館に桜湯のタイルが寄贈されたことが載っている。

跡地は現在マンションになっているが、かなりささやかに、桜湯の名前が残されている。けれどこれだけ話題になった銭湯なのであれば、なにかもうちょっと、遺構や説明板のようなものが残されても良かったのではないか…。勿体ない…。


さて、桜湯跡地から北上してモリタヤ酒店…にいきたいところだがまだ次がある。

またも銭湯跡地であり、「板の間かせぎ」の犯人を経営者と馴染み客が「下町の連携」で捕まえた、という、板の間かせぎネタ的フィナーレを飾る恵美須湯だ。途中端折ってしまったが、他にも板の間かせぎ被害に遭ってニュースになった銭湯はあった。

昭和57年、この恵美須湯でも一度被害に遭うが、そのお客さんと息子、銭湯経営者とその妻がサインプレーを巧みに使いながら「仇討ち」を果たす。その様子がまるで小説のような、臨場感あふれるタッチで書かれた記事あったので、それを読み上げた。


恵美須湯。先に書いた、昭和58年に改装オープンしたニュー恵美須と名前が似ていることにお気づきだろうか。そう、経営者同士が親族なのである(と、インタビューしたら教えてくださった)。

そしてこちらは廃業してはいるが、建物の一部が残っているのだ。



「下町の人情サインプレーによる仇討ち」の話を噛み締めながら、外壁を味わう。


他にも数カ所のポイントとネタを用意してあったのだが、時間的にもちょうどよく、恵美須湯のフィナーレ感が大きかったので、ここでまち歩きは終了。


ラストは町屋に戻って打ち上げ。

水路上観察の写真を見せ合い解説してもらうと、密かに自分なりの軸を設定していたり、互いの動きを観察していたりしていて、「水路上のものを撮る」以外の行為が実は繰り広げられていて、聞けば聞くほどおもしろかった。


その後はゆったりと藍染川に落ちた人の体験談(これがまた、郷土資料で読むものなどとは臨場感が違い、他の情報と組み合わさったりして、聞けて良かった…!というものだった)を聴きながら、お酒と料理に舌鼓を打つ。

揚げたての厚揚げ、美味でした。



そんなこんなで荒川区とのご縁はもともとあったものがにょきにょきと育ち、自分が住んだことのある場所以外にも、あちこちに愛着が湧くようになってきています。


そして。

荒川区景観まちづくり塾、今年度のスケジュールが公表されました。

今年も暗渠パートがあり、そしてさらに先に進む・いましかできない貴重な内容。

こちらから申し込めます。7月8日まで。


引き続き、お手伝いをさせていただく予定です。どうぞよろしくお願いします!

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